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    10年を振り返って―曽我ひとみさんの手記(1)  

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      10年を振り返って―曽我ひとみさんの手記(全文)
      no.1



      ★☆救う会全国協議会ニュース★☆

      (2012.09.21)


       曽我ひとみさんが9月20日、帰国して10年を振り返る手記を公表した。曽我さんは、1978年8月12日に母ミヨシさんとともに佐渡から拉致された。そして2002年10月15日に蓮池さん夫妻、地村さん夫妻と共に24年ぶりに帰国した。

       手記では、「この10年という時間の流れの速さ、長さを考えると、自分だけが日本に帰ってきたことへの後ろめたさ、申し訳なさで頭の中がいっぱいになる」とある。帰国した拉致被害者は、すべての拉致被害者が帰国しないと、「申し訳なさ」が募り、本当の意味での幸せにはなれない。

       A4で9枚の紙に、家族、関係者、友人等多くの人に迎えられたこと、34年間日本語を使っていなかったため相当期間日本語が出てこなかった苦しさ、家族の帰国まで日本で待つことの決心、初期癌の発見と手術。もし北朝鮮に戻っていたら治療ができただろうか。帰国後、夫の入院中の父の入院、保健師の仕事、家族の帰国、4人一緒なら乗り越えていけると思ったこと、父の死、夫の家族との面会、など予測できないことが次々に起こった日々が綴られている。そして未だ拉致された母に会えない苦しみ、拉致被害者に対しては「決して諦めないこと」を訴えた。

       すべての拉致被害者が帰国しなければ、帰国した被害者の心も痛み続けている
      ことを改めて感じさせる曽我さんの手記。一日も早い解決が必要だ。




      ∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞



      ■10年を振り返って―曽我ひとみさんの手記


      時の流れ ―10年を振り返って―


       「もう10年になるんだなあ」

       年が明けて平成24年になった。その日から何度この言葉をつぶやいたことか。その度に色んなことが頭の中を駆け巡る。思い出したくないことは鮮明に浮かんでくる。覚えていたいことは、時間の経過とともにぼんやりとしたものになってくる。あれやこれやと考えているといたたまれない気持ちになり、同時に胸が締め付けられじっとしていられなくなる。この10年という時間の流れの速さ、長さを考えると、自分だけが日本に帰ってきたことへの後ろめたさ、申し訳なさで頭の中がいっぱいになる。正直なところ、私達5人が帰国し、拉致問題が大きくクローズアップされたことにより、他の拉致被害者が続々と帰国してくるものと思っていた。しかしこの10年、これといった成果は見られなかった。拉致被害者を待つ家族の気持ちを考えると、一日一日がとても貴重な時間であり、もう待てないところまで来ている。一体どうすれば解決できるのだろうか。誰も答えを引き出すことなど出来ないのではないだろうか。それほど難しい問題なのだと思う。でも、今の状態がずっと続くことは許されない。何か解決の糸口が見つかってほしいと願うばかりだ。ここで、この10年を振り返ってみる。

       何から書けばいいだろう。ちょっと思い出してみる。そう、やっぱり最初に思い出すのは、帰国できた最大の要因となった日本の調査団との面会だろう。平成14年9月17日、日本の調査団がやってきた。実は、党の幹部から事前に調査団が来ることを告げられていた。ただ、今までだまされ続けてきたので、本当に面会できるのか半信半疑だった。私は、党の幹部と指導員と同伴で、面会会場へ行った。24年間、待ちに待った瞬間が本当にやってきた。夢に見たことが現実となったのだ。この時の嬉しさをどう表現すればいいのか分からないほど舞い上がっていた。

       当時はすっかり日本語を話せなくなっていたので、通訳を介してのやりとりがあった。心の中では、自分が「曽我ひとみ」であることを日本語で叫んでいた。一つ一つの質問がもどかしい。早く私を「曽我ひとみ」だと認めてほしいと気持ちが焦っていた。どのくらいの時間が経っただろう。調査団の人達が「曽我ひとみ」本人であると認めてくれたのだ。その時の嬉しさは今も忘れていない。ただ、残念なこともあった。その面接の時、一枚の写真を見せられた。「誰か分かりますか?」と開かれ、「私です」と答えたら相手は不思議そうな顔をしていた。思いつく人物がいないので、ずっと考え込んでいたら「あなたのお母さんですよ」と言われた。あんなにも会いたくて会いたくて思い続けた母の顔を忘れていたのだ。確かに初めて見る写真ではあったが、母の顔を忘れているなんて想像もしていなかったのだ。あの時の何とも表現し難い衝撃は、その後の幾多の出来事で味わった衝撃と比較できないほどであった。全身の力が一気に抜けてしまったことを今も覚えている。

       その後、日本へ一時帰国することになった。娘たちは、「日本に帰るのに、日本語話せるの?」「少しでも日本語が話せた方がいいよ。今から少しでもいいから日本語の勉強しなさいよ」と、あれやこれやと世話をやいてくれた。娘たちの気遣いがとても嬉しかった。とはいえ、「一夜漬けの勉強でどうなるものでもない」「日本に行けば何とかなるさ」と、今思えば、かなり肝が据わっていたようだ。出発の日、空港まで夫と娘たちが見送りに来てくれた。「いよいよ、日本へ帰れる」。心の中では、飛び上がるほどの嬉しさがこみ上げていた。でも半面、不安もあった。佐渡の家族は、親戚や友人は、私を覚えているだろうか?。私を受け入れてくれるだろうか?。いろんな思いが頭をぐるぐる駆け巡っていた。ついに飛び立った。

       平成14年10月15日、24年ぶりに帰ってくることができた日本。着陸態勢に入った。窓から見える空港の景色。なぜか大勢の人達が見える。私たちの他に誰か有名人でも出迎えにきているのだろうか。軽い気持ちでいた。ところが、タラップへ出てきたらびっくりした。あの窓から見えた人達は、私達5人を出迎えるため集まっていたのだった。日本では、拉致問題がとてつもなく大きな出来事なのだと、このとき初めて知った。ただ私自身は、自分の国へ帰ってきただけなのに、という単純な思いしかなかった。出迎えの人達は口々に「お帰りなさい」と言っている。知らない人達ばかりだった。

       必死に家族を探した。妹の姿が見えた。お互いに駆け寄り抱き合った。嬉しくて涙が止まらない。でも、話が出来ない。いっぱい、いっぱい話したいことがあるのに、言葉が出てこない。もどかしくて、自分でもどうしたらいいのか分からなくなっていた。会話もままならない状態でホテルへ着いた。

       部屋に入って一息ついていたら、政府関係者が訪ねてきた。「この後、被害者全員で会見があります。その場で一言でいいので、話をしてください」と言う。「妹とさえまともに話ができないのに、一言でいいから何かを言えとは…」と途方にくれた。必死に言葉を探した。「会いたかったです」の言葉が浮かんできた。部屋の中で何度も何度も声を出して練習した。私にはやっとひねり出した日本語だったのだ。会見場にいた人やテレビを見ていた人たちには、何か物足りないと感じたかもしれないが、私には清水の舞台から飛び降りる気持ちで発した日本語だったのだ。言った後、ドキドキした胸のつかえが一気に取れた気がした。会見が終わればゆっくりできるかと思っていたが、なかなか一人になる時間を与えてもらえなかった。東京滞在中は、家族会の人たちや政府関係者との面会が続き、日本に帰ってきた感動を味わうどころではなかった。






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